タイペックの家全体の使用例
水蒸気は排除し湿気だけ通すシート
★「日本で最高に腕の良い大工や左官が建てる数寄屋造。
木に一本々々丁寧に麻毛を植え、木と土壁との隙間がないように施工したものでも、
冬期の乾燥で木や壁が収縮。
※20坪の住宅で「30センチ角の穴が2つも空いている勘定になる」と今から50年以上も
前に発表していた。
この資料を読んで、初めて気密性に目覚めさせられた。
日本で最高の数寄屋造でそんな有様ということは、一般の庶民住宅の隙間は80センチ角2
つ以上の穴が開いている勘定に‥‥。
アルミサッシ革命によって、日本の住宅は本格的な《結露の時代》を迎えることになる。
気密性が格段に良くなったことと石油ストーブの普及で、室内外の温度差が10℃以上ある ようになった。
かくて、日本全土の窓で結露問題が発生しはじめた。
しかし、結露はアルミサッシの普及で初めて発生したのではない。
1953年の北海道での「寒冷地住宅建設促進法」の発足とともに発生している。
寒冷地の北海道では、最初は冷気を侵入させないということが主命題が置かれた。
だが、次第に断熱の必要性が認識されてきた。
しかし、当時は断熱材として相応しい資材が見当たらず、
グラスウールが登場したのが1958年。 最初は25ミリ厚。
これが最初は公営住宅に使われ、結露が集中的に発生した。
ともかく、RC造の公営、公団住宅をはじめとして、民間の木造住宅に至るまで、以来20年 以上に亘って日本のすべての住宅で結露が発生し、カビ、ダニ問題に悩まされ続けてき
た。
いろんな研究チームが組織され、懸命に解決策が模索されたが、誰一人として解決策を用 意出来なかった。
この結露問題の未解決が、戦後の粗悪な建築資材の普及とともに日本の住宅の短命化をも たらした。
そこへ、「ベバーバリア」という概念を持ち込んだのがツーバィフォー工法。
ツーバィフォーの大手であった三井ホーム、地所ホーム、東急ホーム、スウェーデンハウ スがR-2000住宅の求めた0.9c㎡/㎡の気密性能をコンスタントに達成出来ず、
R-2000住宅から撤退した。
ツーバィフォー工法が、オープンな形で日本へ導入され、告示されたのが1974年。
それから2年ぐらい経った時、旭川で「ツーバィフォー壁内氷柱事件」が発生した。
当時は北海道でも耳付きのグラスウールを充填するのが常識。
常識的な工事をしたはずなのに 室内へ水が漏れてきた。
ボードを剥がしてみたら、耳付きグスウールが結露で凍結し、氷柱になっていた。
アメリカでグラスウール断熱材が使われるようになったのは戦時中の1942~1943年頃だ
ったらしい。
そして、寒冷地を中心に壁内結露を起こし、大問題になっていた。
徹底的に対処法が検討された。
その結果、冬期に暖かい湿った空気を壁内へ入れるべきではないとの結論に達した。
つまり、ベバーバリアの考えが戦時中のアメリカで生まれた。
そして、アメリカでは寒冷地を中心に幅広のポリスチレンフィルムによるベバーバリア
が、瞬く間に普及していった。
そのベバーバリアが防湿層と名を変えて、やがて公庫の標準仕様書にも採用された。
しかし、公庫の仕様書では、気密性で一番問題となるスィッチやコンセントボックス周り の記述があいまいで具体的でなかった。
このために施工精度に問題が残り、残念ながら冬期の壁内へ湿気の侵入を抑えることが出 来ない現場が多かった。
その時、北海道で開発されたのが《外壁通気構法》。
壁内へ多少の湿気が漏れても、外部合板の外に通気層があると、湿気は壁内にとどまらず 12ミリ合板の23㎡h・mmHg/gという透湿抵抗を抜けて外部に排出されることが判明。
ちょうどその時、絶好のタイミングでデュポン社がポリエチレンフィルムによって、湿度は 透すが水は透さないという《タイベック・ハウスラップ》を開発してくれた。
それまで用いられていたのはアスファルト系の防水材。
これは透湿性がなく、結露を起こすもう一つの主役だった。
最新鋭の透湿性のある化学物質の登場で、結露問題で困窮していたほとんどのメーカーと地 場ビルダーは、タイベックと北海道生まれの通気工法に飛びついた。
かくて、20年余に亘って日本を悩ませてきた冬期の壁内結露問題は、ほぼ解決された。そ して、R-2000住宅などの気密性・断熱性が高い高性能住宅の寿命は、60年から100年間 に飛躍的に向上した。
しかしタイベックは、日本の住宅の全ての結露や空気質問題を解決してくれたわけではな かった。→ 結露について
鵜野日出男のブログより